ちゃんと、ではなく、ちょうどよく。
「ラテラル」って、ちょっとずらしてみて、「正解」より「最適解」を見つけることだから。
ポジティブでもネガティブでもなく、やじろべえのような調律感で自分をととのえる、「ラテラル」な考え方。
そもそも「考え方」って千差万別で、「正解」も「不正解」もないもの。
ただ、考え方はレールが分岐するところのポイントみたいなもので、「これから」に意味をもたせる。
だったら、その考え方が自分の腑に落ちるかどうか、ここにこだわりたいわけで。
自分の暮らしも人生も、まず、自分の内側の感情や思考や意図から始まるから。
すべてをコントロールできるわけではないけれど、波紋の「源」ではあるので、外側の世界に少なからず影響するものだ。
とはいえ、もともと「ラテラルシンキング」を意識していたわけではない。
それは、これまでの自分の思考傾向を後付けで分析して、自分で再定義したもの。
たとえば、苦しいこと、つらいこと、突然のことで戸惑い、うろたえてしまったとき。
そのときの自分のまま、背伸びせず、虚勢をはらず、無理をせず。
あれこれ采配しようとせず、右往左往せず、頭で客観的に軽く受け止める。
そんなふうに、無意識に試みてきた。
とにかく、心では受け入れない、心はシャットダウンさせる。
目の前のことに、いまの自分のままで、いつも通りに対応する。
エネルギーを使うとしたら、考え方をフラットに、フラットにさせる調律のみ。
それは、失業、休職、体調不良、別れといった、苦い経験を人生の中で繰り返すたびに自分にしみついた「癖」のような感覚。
必要以上に自分を消耗させないため、また、どんな状況でも、その日生きることから逸れないため。
強くあろう、というのでもない。
ただ、折れてしまわないようにしたかっただけ。
いつも通りに、大切なものを大切にしていたかっただけ。
ミドル世代とは、揺らぎやすい移行期だ。
心も身体も、暮らしも、ちょっと無防備でいると、自分で調整するのが難しくなるくらい崩れることもある。
だからといって、がんじがらめに「武装」するのでもなく。
なにごとも自分の腑に落ちるように、自分のままで立っていられるように、そうやってととのえる調律感。
この、やじろべえのような思考を癖にしていくと、だんだん「揺らぎにくくなっている自分」に気づいた。
そしてなぜか、自分の生活領域での「外側」まで、不思議とととのってくる、ということにも。


